研究活動

年次大会

第73回大会(東京大学)「テーマ部会」

▼テーマ部会A「科学技術革新による社会再編の可能性
――知の構築プロセスへの市民の関与」

▼テーマ部会B「「社会規範」の〈変化〉をどう捉えるか?
――その現在地を考える」

テーマ部会A 「科学技術革新による社会再編の可能性――知の構築プロセスへの市民の関与」

担当理事:赤堀 三郎(東京女子大学)、堀内 進之介(立教大学)
研究委員:馬渡 玲欧(名古屋市立大学)、柳原 良江(東京電機大学)

文責:馬渡 玲欧・赤堀 三郎

部会要旨

科学技術の社会への影響を歴史的に振り返ると、産業革命以降展開されてきた数々の近代的エネルギー技術の導入と普及の問題が否応なく視界に飛び込んできます。我々の生活に明かりを灯すエネルギーはいわば近代化の象徴的存在であり、都市社会のさまざまな局面で文字通りの「可視化」をもたらしました。しかしながら同時に、幾度かの転換期を経てエネルギー技術の社会的受容が進む中で、いくつかの背景化された社会的条件のもとで「不可視化」の問題も現れてもいます。

この3月に行われた本学会2024年度第1回研究例会での議論を踏襲するならば、科学技術の発展は必ずしも知識の均等な普及を保証するものではなく、「無知」を意図的・非意図的に生み出す可能性があります。社会構造のダイナミズムを射程に収めつつ、この「無知」が社会にどのような利益・不利益をもたらすかを検討するために、社会学は、理論枠組の精緻化が求められる状況にあります。特に、専門家と市民の間において生じる専門知・科学知の解釈の違い、ボトムアップ方式での知の構築の可能性、専門知の公共性をめぐる議論が重要です。

以上を踏まえ、本テーマ部会では、エネルギーを取り巻く科学技術革新を題材に、近年の再生可能エネルギーの受容をめぐる「保守/革新」といった政治的立場の相克、科学技術と女性の関係性を捉えるフェミニズム科学論や市民科学論に基づく分析、また我々の社会において望ましいエネルギー技術の導入をいかに果たしていくのかに関する熟議民主主義的課題や制度的再構築の方向性について議論を行います。

具体的には、まず、保坂稔先生(成城大学)が再生可能エネルギーという「科学技術革新」をドイツの市民がいかに受容したのか、「価値的保守」という理念に着目しながら報告します。次に、水島希先生(叡啓大学)が、市民科学の一つである放射能市民測定を行っている市民科学者らが、なぜ政府とは異なる測定単位を用いているかを、カレン・バラッドの議論を参照しながら論じます。最後に、三上直之先生(名古屋大学)が、科学技術への市民参加、特に無作為選出型の市民会議を用いて先端科学技術や気候変動問題などについて市民の熟議に基づく意見を導入する方法を取り上げて話題提供を行います。討論者には鈴木宗徳先生(法政大学)をお迎えし、特に社会学理論の観点から3名の報告に対してコメントをいただきます。

報告者および題目

「価値的保守」を理念とした市民参加――ドイツにおける再生可能エネルギー推進を事例に
保坂 稔(成城大学)

なぜベクレルで測定するのか?――測定単位からみる市民放射能測定の物質性
水島 希(叡啓大学)

民主主義の実験としての気候市民会議
三上 直之(名古屋大学)

討論者:鈴木 宗徳(法政大学)
司会者:堀内 進之介(立教大学)

報告要旨

「価値的保守」を理念とした市民参加――ドイツにおける再生可能エネルギー推進を事例に

保坂 稔(成城大学)

 ドイツは、2024年の総発電量に占める再生可能エネルギーの割合が約58%に達していることなど、地球温暖化対策を率先して推進している国と位置づけられる。報告者はこれまで、ドイツのバイオエネルギー村でのインタビューで、再生可能エネルギー事業関係者が、「価値的保守」を理念として事業を推進していることを明らかにした。「価値的保守」は、バーデン・ヴュルテンブルク州首相クレッチマン(緑の党)が理念としてかかげて以来、ドイツでもクローズアップされている言葉だが、「保守」の立場を表明した理念である。いわば、ドイツにおける再生可能エネルギー事業の成功には、保守的理念の存在があるのである。
 「科学技術革新」という言葉にあるように、科学技術には「革新」を求められるケースが多く、環境運動の分析に関しても、イングルハートの「脱物質主義」を用いてドイツ緑の党の革新的な特徴をまとめている議論もある。しかし、ドイツ緑の党にせよ、現在のドイツ再生可能エネルギー事業にせよ、保守的理念が市民の支持を受け、社会再編が促進している事例となっている。
 本報告では、以上のようなドイツの状況を紹介するとともに、ドイツで得られた知見を踏まえ実施した東京都民を対象にアンケート調査を踏まえ、日本における社会再編の可能性を検討したい。

なぜベクレルで測定するのか?――測定単位からみる市民放射能測定の物質性

水島 希(叡啓大学)

 市民らが身の回りの放射能を測定する市民放射能測定は、日本の代表的な市民科学の1つである。歴史的には、チェルノブイリ原子力発電所事故後、食品等の放射能汚染を調べるため1980年代後半に市民団体が独自の測定を始め、福島原発事故後は、さらに大きな動きとなった。現在、数は減ったものの、数十の測定室が測定を続けている。
 原子力発電所事故による放射線被曝の評価をめぐっては、市民と主流の科学(国および職業科学者)との間には対立があり、この対立は、線量限度など「基準」をめぐる見解の相違において顕著だが、これらは市民科学における測定装置の選択や測定方法、測定対象の違いとして現れている。ではなぜ市民科学は主流の科学とは異なる測定を行うのだろうか。
 本研究ではカレン・バラッドのエージェンシャル・リアリズムを用い、市民科学と国の測定実践における「装置」と物質のあり方に注目した分析を行った。特に、強制避難区域等を決定する際に用いられる土壌測定を事例に、「装置」としての測定単位に着目した。その結果、ベクレルで測定する市民科学では、測定によって、放出源の明らかな放射性物質が被曝の多寡を左右するエージェンシーを持つものとして立ち現れる一方、シーベルトで測定する国の測定では、むしろ人間が被曝に関するエージェンシーを持つものとなる。こうした異なる物質性と責任(Response-ability)との関係を、倫理の視点から議論する。

民主主義の実験としての気候市民会議

三上 直之(名古屋大学)

 近年、気候変動対策のための市民参加の形として、一般から無作為に選出された人たちが熟議し、政策提言する「気候市民会議」が国内外の各地で盛んに開かれている。
 欧州における初期のケースの観察から、気候市民会議の広がりは、脱炭素社会への転換と民主主義のイノベーション(democratic innovation)とを同時に実現しようとする動きであることが示唆されてきた。こうした理解を出発点として、特に2022年以降に日本国内で蓄積された複数の事例を参与観察し比較すると、事例や局面によって、専門知と民主主義の関係という観点で、互いに対照的な三つのタイプが見出される。
 第1に、熟議民主主義論が示してきた、バランスの取れた情報を踏まえた熟議を通じての意見形成と、政策決定への影響力の発揮というオーソドックスなタイプがある。他方、第2のタイプとして、確立された専門知を前提に、望ましい方向に人びとの行動を変容させる手段として気候市民会議を位置づけるケースも見られる。このいずれとも異なるあり方として、第3に、参加者や関係者が、気候市民会議という方法の生かし方も対象に含めた対話や行動を重ね、問題解決に向けた多様な社会的取り組みを作り出すタイプがある。
 これら三つは同じ会議の中にも併存し、異なるタイプがせめぎ合いながら展開する。中でも第3のタイプは、試行錯誤を繰り返しながら脱炭素社会の転換の道筋を探る意味で、気候市民会議に特徴的である。行動を通じて意味や規範が生成されるというプラグマティズムの考え方を手がかりに、こうしたせめぎ合いの過程を見ると、気候市民会議は、対話や行動を通じて問題解決の取り組みを生み出そうとする新しい民主主義の実験と言える。

テーマ部会B「「社会規範」の〈変化〉をどう捉えるか?――その現在地を考える」

担当理事:土井 隆義(筑波大学)、仁平 典宏(東京大学)
研究委員:赤羽 由起夫(北陸学院大学)、髙橋 史子(東京大学)

文責:仁平 典宏

部会要旨

2024年度~25年度のテーマ部会Bでは、「社会規範」が近年どのように変化し、現在どのような状況にあるのかについて検討しています。

かつて1980~90年代頃の社会学・社会批評では、「社会規範」の相対化や弛緩は社会診断における共通の前提として語られていました。曰く、規範は社会を統合する上で重要な役割を果たしてきたが、社会が複雑化・多元化・個人化する中で統制的な役割を持つ社会規範は機能不全に陥っている。現在は相互が相互に他者として現れる時代であり、島宇宙化する中で共通のコミュニケーションの基盤の設定は可能なのか、そもそも社会は可能なのか、ということをこそ問わなければならない――。

現在、この記述はどこまで妥当するでしょうか? 確かに社会はより複雑になり、ライフコースや生の形式は多様化し、個人化の趨勢は顕著になっています。しかし同時に、極小化していくはずだった「社会規範」を濃厚に感じるようになった側面はないでしょうか? その諸相は「社会規範」の相対化や弛緩というかつての社会記述と齟齬をきたしているようにも見えます。これらの現象をどう捉えるべきかを検討していくことがテーマ部会Bの課題となります。

2025年6月の学会大会では、「「社会規範」の〈変化〉をどう捉えるか?――その現在地を考える」と題して、経験的な分析と理論的な検討を往還させながら、いくつかのフィールドにおける「社会規範」の現在性と公共圏との関係について議論を深めていきたいと考えています。

旧来の規範が相対化・弛緩が進んでいる領域がある一方、かつては曖昧な形で容認されていた行為や発言が、モラルに反していたりハラスメントであるとして可視化され、批判の対象になったり炎上するという事象が頻繁に生じています。これは一方で、リベラルな価値に基づく社会規範がルールとして共有され、人権が守られるようになってきた変化を示しているようにも見えます。他方で、それに「息苦しさ」を感じ露悪的な投稿がポストされ続けるのみならず、明確にリベラルな価値・規範を揶揄・攻撃するコミュニケーションも増大しており、そこでは保守的な社会規範が召喚されている様相も見受けられます。

上記の事象は「社会の分断」と捉えられてきました。しかし「分断」という概念は、少数の政治的立場の内部における価値・規範への同化や強制力の強化を含意している記述で、かつての「規範の相対化・弛緩」とは対極にあるようにも見えます。社会規範を捉える趨勢的な枠組みが「相対化・弛緩」から「濃密化」「分断」へと変わる上で、いかなる概念の書き換えや領有戦が生じているのか、その変化は公共圏といかなる関係にあるのか、そして我々は「社会規範」という概念とどう向き合っていけばいいのか――。学会大会では、電車マナー、ジェンダー、排外主義という領域における「社会規範」の現在地と係争点に関する報告と議論を通じて、これらの問いに迫っていきたいと考えています。みなさまのご参加をお待ち申し上げます。

報告者および題目

社会規範の機能分化とメタ規範化――電車のマナー分析を素材にして
田中 大介(日本女子大学)

女性のニーズと脆弱性をめぐる社会規範——なぜ「女性優遇」に見えてしまうのか
鈴木 彩加(筑波大学)

分極化時代の社会規範とイデオロギー ――イデオロギー対立における規範的概念の悪用をめぐって
明戸 隆浩(大阪公立大学)

討論者:奥村 隆(関西学院大学)
司会者:土井 隆義(筑波大学)、髙橋 史子(東京大学)

報告要旨

社会規範の機能分化とメタ規範化――電車のマナー分析を素材にして

田中 大介(日本女子大学)

 19世紀末以降、社会規範は、社会学が形成される際の中心問題のひとつとして現れた。その後、様々な人間関係や社会現象が分析されるなかで、多様な規範が分析の俎上に載せられた。そして、マクロやミクロ、それらを繋ぐような社会理論が多数形成されことになる。
 しかし、近年、アクターネットワークセオリーや社会科学の移動論的転回など、モノやモビリティに着目した社会理論が現れ、ヒトの社会を中心とした旧来の社会学を超える視点として提示されている。それらは「社会的なもの」としての規範を外部化、あるいは規範の外部を対象化しているようにみえる。だが、モノとモビリティを分析する際に、社会学の中心問題のひとつであった規範を手放す必要もない。たとえば、目の前に電車の優先席があるとする——私、あるいはあなたはそこに座るに値するだろうか。このような日常的で些細な光景のなかにも、さまざまな規範が複合的に、また現在的なかたちで折り込まれている。
 とはいえ、「規範」ということばで多様な現象を括れてしまうこと——そのこと自体が社会学の分析平面を作り、学問領域として分出させた部分があるものの——を自明視するわけにもいかない。本報告では、電車のマナーの分析を例にして、規範を仮止め的に分類しつつ、それらの交錯や対立の現在的な様相を記述する。社会の中心でも外部でもなく、ヒトとモノ、ソサエティとモビリティのあいだのインターフェースとして、規範をとらえる視点を、N・ルーマンの議論をてがかりにしながら考えたい。

女性のニーズと脆弱性をめぐる社会規範——なぜ「女性優遇」に見えてしまうのか

鈴木 彩加(筑波大学)

 性別役割分業をはじめとしたジェンダー規範は、「個性の尊重」や「多様性」といった言葉が、とくに若年層の間で日常的に共有されるようになった今日、相対化や希薄化が進んでいるようにみえる。しかしながら、近年ではセクハラ・性暴力被害者への二次加害や、生理の社会問題化に対する抵抗といった、異議申し立てをした女性たちへの攻撃も可視化されつつあり、その被害は深刻である。
 本報告では、2000年代前後のフェミニズムに対するバックラッシュの動向をふまえつつ、当時の反対運動が、リプロダクティブ・ヘルス/ライツをはじめとした女性のニーズおよび脆弱性を行政が取り扱うこと、すなわち社会によって保障されることへの反発を含んでいた点に注目する。そのうえで、今日の「女性優遇」言説が形成される背景には、どのような社会規範や政策的構造が影響しているのかを検討する。
 とりわけ本報告では、家父長制からの逸脱や異議申し立てを行う女性に対する負のサンクションとしてのミソジニーという視点から、女性のニーズと脆弱性に対する支援を必要とする声や、そうした支援を提供することが「特別扱い」として受け止められてしまうメカニズムを考察する。これらの問いを通じて、現代日本における社会規範の複層性を探る。

分極化時代の社会規範とイデオロギー ――イデオロギー対立における規範的概念の悪用をめぐって

明戸 隆浩(大阪公立大学)

 社会規範は社会学の成立以降一貫して重要な概念としての位置を占めてきたが、それは2020年代の社会・政治状況をとらえる上でも大きく変わるところはない。そしてそうしたことは、とくに2016年の最初のトランプ当選以降盛んに言われるようになった「分極化」と呼ばれる社会・政治状況についても当てはまる。社会規範との関連で暫定的に位置づけるならば、「分極化」は、それ以前であれば対立しつつも一定の社会規範の共有が前提にできたイデオロギー的左右対立とは異なり、むしろ前提となる社会規範の共有自体が疑われるような形で、そうした対立が生じる状態と見ることができる。
 しかし本報告で焦点を当てるのはそうした規範の希薄化としての分極化ではなく、むしろそうした分極化の中でそれでもなお(あるいはだからこそ)生じている、社会規範の「共有」である。たとえば日本では2016年にヘイトスピーチ解消法が成立し、その前後で「ヘイトスピーチ許さない」という社会規範が共有されるようになったが、こうした社会規範自体は、少なくとも名目上は左右のイデオロギーを問わず共有されることが多い。そしてこうしたことは一方では確かに対立を解消する方向に働くのだが、もう一方では、そこで共有された社会規範が、イデオロギー対立の中でむしろ利用・濫用・悪用されるという事態を生み出す(「日本人へのヘイトスピーチ」など)。言い換えればそこには名目上はイデオロギー対立を超えた規範的概念の共有があるのだが、そうした概念の「解釈」をめぐって、あらためてイデオロギー的な左右対立が持ち込まれることになる。
 本報告ではこうした状況をふまえて、具体的な事例として先にも触れた2010年代以降の日本におけるヘイトスピーチ概念の成立とその受容を取り上げ、それが分極化時代の社会規範とイデオロギーの関係を考える上で、どのような示唆を与えるのかを考えたい。