第55回大会(筑波大学)「テーマ部会」
▼テーマ部会A「多元化する若者文化」
▼テーマ部会B「現代の『保守』――何が新しいのか?」
テーマ部会A 「多元化する若者文化」
司会者:浅野 智彦(東京学芸大学)、松田 美佐(中央大学)
討論者:山田 昌弘(東京学芸大学)
部会趣旨:浅野 智彦(東京学芸大学)
第1報告:若者文化の個別性 山田 真茂留(早稲田大学)
第2報告:若者文化論の系譜――折々の主題から見えるもの 岩間 夏樹(ビエナライフスタイル研究所)
第3報告: 地方の若者・都市の若者――愛媛県松山市・東京都杉並区2地点比較調査の結果から 辻 泉(松山大学)
報告概要:浅野 智彦 (東京学芸大学)
部会趣旨
部会担当: 浅野 智彦 (東京学芸大学)
先のニュースでお知らせした通り今年度は若者文化の多元性を主題とする部会を開設する。
若者文化が多元的であるという主張自体は必ずしも目新しいものではない。90年代半ばまでは趣味や好みの細分化による文化の断片化・相互没交渉化といった議論がなされ、また90年代後半以降には社会経済的諸条件による階層状の分化といった議論がなされてきたのであり、「大人」のそれに対立するものとして「若者」の文化を一元的に捉えようとする態度が素朴に過ぎることは繰り返し指摘されてきたといってよい。
だが多元性を論じるその視点自体の一元性/多元性についてはあまり注意が向けられてこなかったのではないか。90年代後半以降、若年雇用の問題や階層格差、階層再生産の問題が前景化するにつれて「趣味の細分化」論は後景に退き、階層論的な観点からのそれが議論の場を埋め尽くすようになる。もちろんそこには社会状況の変化への対応というごく当然の事情があり、それぞれの時期に産出された諸研究に重要な学的・実践的意義があったことは強調しておくべきであろう。しかし同時にだからこそ別種の多元性のあり方──いわば多元性へのアプローチの多元性──にも注意を向けておく必要があるとも考えられる。
このような観点から今年2月に行なわれた研究例会においては男性の性的コミュニケーションのあり方について澁谷知美さん(東京経済大学)に、またオタク系サブカルチャー内部の分化について七邊信重さんに報告して頂き、様々な視点から活発な議論がなされた。
これをふまえて来る学会大会では、この多元性について、第一に歴史的な変遷という観点から山田真茂留さん(早稲田大学)に、第二に世代差の観点から岩間夏樹さん(ビエナライフスタイル研究所主幹)に、第三に地域差の観点から辻泉さん(松山大学)にそれぞれ報告して頂いた上で、階層格差を重視する立場から山田昌弘さん(東京学芸大学)に討論者としてコメントして頂く。フロアも含めての活発な議論を期待したい。
報告要旨
第1報告
若者文化の個別性
山田 真茂留(早稲田大学)
若者文化が捉えにくくなっていると言われ始めて既に久しい。それはひとえに、対抗性を具備し、若者世代全域を覆うとともに他の世代からは明確に区別され、全社会的にインパクトを持つ若者文化という現象ないし視角が過去のものとなってしまったからにほかならない。振り返ってみれば若者文化というのは、実は歴史上非常に個別的な存在であった。
日本における若者文化史を、支配文化に対する対抗性という軸と主要文化に対する下位性という軸で見据えるならば、戦後初期:対抗性の貫徹⇒60年代末の団塊世代:対抗性と下位性の混淆⇒80年代の新人類:下位性の氾濫という大きな遷移を見て取ることができる。そして90年代以降、かつてのようなまとまった形での若者文化の大きな塊を見ることはない。たしかに今日でも若者たちの多くは、文化的アイデンティティをことのほか大切にする。しかしそれは、細分化された諸々の文化領域との個別的な交渉にすぎない。そしてそこでは、実のところ文化よりも群衆や集団が、また群衆や集団よりも関係や個人的ライフスタイルが相対的重要性を帯びているのである。
では、若者文化という存在や見方は、今や取るに足らぬものとなってしまったのであろうか。必ずしもそうではあるまい。古典的な対抗文化ないし下位文化へのノスタルジーを解除しさえすれば、今でも若者たちと文化との関わりの多様な現実が浮き彫りになってくる。また、若者たちをマスとして捉える視線それ自体は近年再び高まりつつあるが、それは彼らの振る舞いが相当に特異であるとともに、それが何ほどか時代や社会全般を先鋭的に表象しているように映じているからにちがいない。過去にこだわり過ぎることなく、文化論的視角を広く且つ柔軟に設定するなら、若者文化研究はこうした重要な課題の数々に正面から挑戦していくことができるであろう。
第2報告
若者文化論の系譜――折々の主題から見えるもの
岩間 夏樹(ビエナライフスタイル研究所)
若者論の主題は時代によって変化する。昭和20年代生まれを中心とする団塊世代の時代には「政治」が主題となり、そして80年代の新人類・オタク世代の時代には「消費」が、さらにギャル文化が浮上してきた団塊ジュニア世代前期には「性」が主題となり、最近は若者の「就労」の問題をめぐる様々な問題が盛んに議論されている。これは若者論がその時代の、もっとも目立つ若者像を理解しようとするものだからだろう。また、その折々の一般的な社会的関心とも関係している。若者論の主題は、実際の若者状況と必ずしも正確にシンクロするわけではない。クライアントからの依頼によって仕事をする機会の多い私はそれを痛感する。
昨今、若者論全体の中で若者文化論がやや後景に退いている観があるのは、80年代から90年代にかけての「消費」や「性」が主題となった時代と比較するからだろう。たしかに、その時代には目のくらむような様々なサブカルチャーが噴出し、おのずと、それは社会全体の関心を集めた。また、それはその当時の若者像を理解するためのスウィートスポットでもあった。
しかし、思えば「政治」が主題となった時代にも、それに付随して様々な文化現象があったことは、ポピュラーミュージックやアートの分野を見れば一目瞭然だ。それは「就労」をめぐる構造的な課題が関心を集めている今も、同様だと思える。たとえばニートの問題は、必ずしも就職氷河期や終身雇用制の崩壊からだけで説明できるものではなく、若者たちのライフスタイルや生活価値観とも関係している。
世代論という観点から、若者研究の流れを整理したうえで、最近携わった厚生労働省のニート調査プロジェクトの結果の一端を紹介しつつ、若者文化の問題としてニートについて考察してみたい。
第3報告
地方の若者・都市の若者
――愛媛県松山市・東京都杉並区2地点比較調査の結果から
辻 泉(松山大学)
知られるように、日本における若者文化は、都市化という社会変動と深く関わってきた。この点は「金の卵」と呼ばれた団塊世代、そして渋谷に代表されるような消費文化を享受した新人類世代を思い起こせばよいであろう。
よって、社会学における若者文化研究も、主に大都市の若者を中心的な対象としてきた。例えば、青少年研究会が継続して実証調査を行ってきたのも大都市であり(『みんなぼっちの世界』『検証・若者の変貌』など)、宮台真司・岩間夏樹らのグループが実証調査を行ったのも、大都市であった(『サブカルチャー神話解体』など)。
しかし、半ば自明視されてきた都市と若者の結びつきも、昨今では変化しつつあるようだ。例えば、携帯電話の普及に代表されるような変化によって「もはや渋谷も水戸の駅前も同じ」(北田暁大『広告都市・東京』)という指摘もあれば、「いまや消費文化の発信元は地方都市である」(三浦展『ファスト風土化する日本』)と指摘するマーケッターもいる。
だが、こうした新たな動向に関する、実証的な検討は寡聞にして多くない。そこで本報告では、以下に紹介する調査結果を元に、地方都市と大都市の若者文化の比較検討を行う。果たしてそれは、本当に目立った違いのないものになってしまったのか、それともいかなる違いが見られるのか。当日は、いくつかの調査項目ごとに検討を行いたい。
なお本報告が用いるのは、2005年11月に松山大学人文学部社会調査室を調査主体として行われた、「若者の生活と文化に関する調査」の結果である。同調査は、愛媛県松山市及び東京都杉並区に在住する20歳の男女を母集団に、選挙人名簿を元に層化二段無作為抽出法によって得られた各地域1000名を対象者として行われた。調査票の配布、回収とも郵送法を用い、有効回答数(率)は愛媛県松山市249名(24.9%)、東京都杉並区266名(26.6%)であった。
報告概要
浅野 智彦 (東京学芸大学)
本部会の目的は、最近労働や移行過程からのみ展開されがちな若者論についてより多元的にアプローチすることであった。
第一報告において山田真茂留氏(早稲田大学)は、特定文化の共有によって若者を捉えることが困難になりつつあることを指摘し、むしろ文化論的な視点が若者論と重なり合うという事態は歴史的に見て特殊なものではなかったかと問う。今日かろうじて若者を集団として特定するための表徴はコミュニケーションの型にのみあるというのが山田氏の見立てである。
岩間夏樹氏(ビエナライフスタイル研究所主幹)による第二報告も、若者をめぐる議論の主題が消費や性などから就労を中心としたものに移行しつつあり、さらに就労をめぐってコミュニケーションの問題が浮上してきていることを示すものであった。問題はそこで論じられているコミュニケーションがどのようなものなのかということだ、と岩間氏は指摘する。
辻泉氏(松山大学)は第三報告において若者文化の地域間比較を行ない、メディアによって喧伝されるような典型的若者像が地方においてこそはっきりと見出だされるということを確認した。そのような事態の背後にあるのは、大都市の若者における限りない差異化志向と地方都市における同調志向という分化ではないかと辻氏は推論する。
討論者の山田昌弘氏(東京学芸大学)からは、若者文化が階層変数にのみ還元されるものではないとして、それではどのような変数が最も強い規定力をもつのかという質問がなされた。これに対する応答の中で文化変容の偶発性や歴史的文脈などについて、また、若者のおかれている社会経済的状況がさらに深刻になった場合に様相が変化する可能性について議論がなされた。
会場と応答を含めて最終的には文化とコミュニケーションパタンとの関係、文化論を若者論として再度展開する可能性といった論点が浮き彫りになった。
テーマ部会B 「現代の『保守』――何が新しいのか?」
司会者:小井土 彰宏(一橋大学)、奥村 隆(立教大学)
討論者:高原 基彰(日本学術振興会)、塩原 良和(東京外国語大学)
部会趣旨:奥村 隆(立教大学)
第1報告:若者/ナショナリズム/バックラッシュ<若者の保守化>という問題機制をめぐって 北田 暁大(東京大学)
第2報告:保守と反動のあいだ――ジェンダーはなぜ標的になるのか? 上野 千鶴子(東京大学)
第3報告:ポスト「虚構の時代」の保守化? 大澤 真幸(京都大学)
報告概要:奥村 隆(立教大学)
部会趣旨
奥村 隆(立教大学)
現在、高度成長期や80年代・90年代とは異なる形での、「保守化」と呼べる動きが生じているのではないか。本部会はこの問題意識から、1年目の「『保守化』を検証する」に続き、「現代の『保守』――何が新しいのか?」というテーマを掲げて、2年目の研究例会・大会シンポジウムを企画した。1年目の研究例会では、ネット上の差別発言についての報告(片上平二郎氏)、「保守」を公共哲学に位置づける報告(瀧川裕貴氏)を、大会シンポジウムでは、ジェンダーフリー・バッシング(江原由美子氏)、市民活動や「市民」概念の変質(渡戸一郎氏)、若者の「保守化」とナショナリズム(吉野耕作氏)についての報告をいただき、議論を行った。そこでは、保守化の担い手の検討を通じて、保守化をめぐる「社会過程」を丁寧に解きほぐす作業の必要性が確認された。
この動きの「新しさ」をとらえるためには、さらに、現代の「保守」を歴史的な文脈に位置づける試みと、グローバルな視点から比較する試みを必要とするだろう。2年目の研究例会では、高原基彰氏による日本と韓国を比較した報告、塩原良和氏によるオーストラリアを事例とした報告と討論がなされた。例会の模様は野上研究委員による例会報告を参照されたいが、両氏の報告から日本の保守化を把握する新たな文脈も浮かび上がってきたように思われる。高原氏は、80年代に民主化の試みとして提出された「脱官僚制」言説が、現在の日本でそれへの反発としての「保守化」を惹起していると指摘し、塩原氏は、福祉国家を前提に統合モデルたりえた「多文化主義」が、2000年代のオーストラリアで「ネオリベラリズム」に流用されていると指摘する。両報告がともに描き出す対抗的プロジェクトの逆説的な帰結は、現代の「保守」を解明するという課題も、これに対峙しうる立場を提示するという課題も、従来の認識枠組みでは十分には果たしえないことを示唆している。
この課題に、社会学はどう答えることができるのだろうか。大会シンポジウムでは、北田暁大氏、上野千鶴子氏、大澤真幸氏に、現代の「保守」への本部会の問いに対する回答をご報告いただく。各報告は、若者の保守化言説をめぐるウェブ調査分析を通しての批判的検討(北田氏)、ジェンダー・バッシングを「保守」と「反動」を軸に読み解く作業(上野氏)、ナショナリズムの現段階や「ポスト虚構の時代」についての時代認識(大澤氏)を焦点として展開されることになるだろう。また、研究例会報告者の高原氏、塩原氏に討論者としてご登壇いただき、例会の成果を踏まえながら、各報告へのコメントをいただく。この2年間の本部会での報告と討論から、現代の「保守」についていかなる像が結ばれるのか、多数の参加者を交えた活発な議論を期待している。
報告要旨
第1報告
若者/ナショナリズム/バックラッシュ<若者の保守化>という問題機制をめぐって
北田 暁大(東京大学)
ここ数年<若者の保守化>という問題系は、メディア、コミュニケーションの変容や、若者の置かれている社会経済的位置の変化といった事柄と関連付けられつつ、様々に語られ続けてきた(いる)。一方、そうした議論に対しては、「○○ゆえに保守化している」といわれるときの因果帰属は妥当か」「そもそも保守化しているといえるのか」といった疑念も投げかけられている。
もし、「実態」として若者の保守化・反動化が存在していないのだとすれば、<若者の保守化>論は、不必要に危機意識を煽り、その危機の解消の必要性を訴えているマッチポンプ的な語りである、ということになる。たんなる表層的なメディア言論の「風潮」とは異なる「実態」の如何の把握は、<若者の保守化>論を展開していくうえで、不可欠の手続きとなるはずだ。
しかし問題を難しくしているのは、「実態」把握の困難さである。<若者の保守化・反動化>に限らず、あらゆる社会事象について指摘できることであろうが、「実態」ということでいかなる事態を指し示しているのかはそれほど明確に語りうることではない。それが、人々の価値意識を指すのか、人々の意味世界のありようを指すのか、それとも人々の具体的な行動を指すのか、観点の取り方によって「実態」のあり方(および、その捕捉のための手続き)は大きく違ってくる。観点の取り方によっては、「風評」(を構成するような言論群)と「実態」は画然とは分かちがたい関係にあるものとして立ち現れてくるかもしれない。その場合には、「実態」と「風評」「言論」との連関を問うことも重要な社会学的課題となってくるだろう。
本報告では、「実態」(の近似)をめぐるいくつかの調査研究と、メディア言論などに定位した分析とを簡単に検討したうえで、<若者の保守化・反動化>というアジェンダにおける「実態」と「言論」との微妙な関係性—および、その社会学的意味—について考察していくこととしたい。
第2報告
保守と反動のあいだ――ジェンダーはなぜ標的になるのか?
上野 千鶴子(東京大学)
現代の保守は、守旧という意味での「保守conservative」ではなく、グローバリゼーションのもとで改革がすすんだためにその変化にリアクトしてin reaction to生じた「反動reactionary」である。したがって社会変動を抜きに考えることはできないし、「伝統」をうたいながら「改革」派の見かけを持っている。グローバリゼーションはだれにもおしとどめようのない変化だが、ネオリベ改革はそれに対する反応だった。そのネオリベ改革がもたらす国民のあいだの亀裂を修復する装置としてネオコンが要請された。経済的にはネオリベ、政治的にはネオコンの「奇怪な結託」が「現在の保守」の特徴である。
社会変動は社会集団のあいだに変化への歴史的時差をもたらすが、それへの反動が起きるとき、ほとんど必ずと言ってよいほど「女性(の性的自律性)」が攻撃の標的になる。その点では90年代の歴史修正主義を初めとするネオコンの攻撃がジェンダーフリー・バッシングへ、さらにはジェンダー・バッシングへと向かったことは、陳腐というほかない歴史のクリシェclicheだが、その背後にも「現代の保守」に固有の特徴がある。それは未曾有の少子高齢化の進行のもとで、ネオリベ改革が想定外の超低出生率を招いたことへの危機感である。経済格差は出生力格差としてもあらわれる。「現代の保守」は、国家の威信や経済力の回復のみならず、出生力の回復までめざしているようにみえるが、その政策効果は逆効果というほかない。
本報告では「現代の保守」分析にジェンダー的な介入を試みる。
第3報告
ポスト「虚構の時代」の保守化?
大澤 真幸(京都大学)
1990年代以来、日本社会が、(広い意味で)「保守」化・「右傾」化している、と言われる。歴史教科書を見直そうとする論調、靖国神社参拝問題、「ぷちナショナリズム」等の語で指示されるような若者たちのナショナリズム、ネットの「言論界」を中心とした左翼批判(バッシンク)等が、こうした現象の例とされている。類似の例に、さらに、Jリーグ、J-Pops, J-文学、Japanimationといった「J」を冠する日本の現代文化への自己意識の迫り出し(浅田彰が「J現象」とよんだ文化の動き)、憲法九条改正への気運、ジェンダーフリーへのバックラッシュ等を加えておくこともできる。
だが、厳密な社会調査は、必ずしも、こうした印象を裏書きしてはいない。たとえば、NHK放送文化研究所の「日本人の意識」調査によると、「日本人はすぐれた素質を持っている」等の日本(人)への自信の大きさを問う質問――言わばナショナリズムの強度を示す質問――に肯定的に回答する者の数は、1983年のピークにして減少してきており、2003年の最新のデータは、この調査開始(1973年)以来、最低の水準を示している。この「矛盾」をどう解釈したらよいのだろうか。
これと同じ形式の「矛盾」は、宗教をめぐる意識に関しても見出される。一方では、1980年代(末期)以降の新新宗教の興隆や、2000年代に入ってからの「スピリッチュアル」ブームは、脱・脱呪術化とでも呼ぶべき、(広義の)宗教的なものの復活を暗示している。しかし、他方で、上記「日本人の意識」調査によると、神・仏などを信じている者の数は、減少しつつあり、その傾向は若年層においては著しい。
こうした「矛盾」は、現在の保守化やナショナリズムが,古典的・伝統的なそれとは異なった態度を前提にしていることから出てくるものである。本報告では、上記の「矛盾」を解消することを媒介にして、この現代的な態度の構造を抉出することになる。
報告者は、(見田宗介の説を継承しつつ)戦後日本の精神史が、「理想の時代」から「虚構の時代」へと転換してきた、と主張してきた。上記の「矛盾」を解くことは、現在の日本社会が、「虚構の時代」に続く第三のフェーズに入っていることを確認する作業にもなるだろう。
報告概要
奥村 隆(立教大学)
現在、高度成長期や80年代・90年代とは異なる形での「保守化」と呼べる動きが生じているのではないか。この問題意識から、1年目は「『保守化』を検証する」、2年目は「現代の『保守』――何が新しいのか?」というテーマを掲げて例会・シンポジウムを重ねてきた本部会も、筑波大会で最終シンポジウムを迎えた。報告者として北田暁大氏(東京大学)、上野千鶴子氏(東京大学)、大澤真幸氏(京都大学)、討論者として塩原良和氏(東京外国語大学)、高原基彰氏(日本学術振興会)にご登壇いただき、160名を超える参加者を得て、会場は熱気に満ちた雰囲気だった。司会は小井土彰宏氏(一橋大学)と奥村が担当した。
北田氏の報告「若者/ナショナリズム/バックラッシュ――<若者の保守化>という問題機制をめぐって」は、「男性弱者」がナショナリズムへ走るとする構図に疑問を投げかける。独自のウェブ調査データから北田氏は、愛国心の強い人ほどジェンダーフリーに否定的とはいえず、「男性弱者・ナショナリズム・バックラッシュ」の三点セットという前提には問題があること、「メディア言論の位相」と「社会意識の位相」を相対的に自律したものととらえるべきことを指摘する。
上野氏の報告「保守と反動のあいだ――なぜジェンダーが標的になるのか?」は、ネオリベ改革を背景としたリアルポリティックスの水準でのバックラッシュの具体像を描きながら、バックラッシュを90年代に起こったポスト冷戦・グローバリゼーション・バブル崩壊という変化への「反動的」対応と性格づける。こうした社会変動への「反動」として「女と性」(性的自己決定権)がねらわれることは、明治から繰り返されてきた「歴史的ワンパターン」であると、上野氏は主張する。
大澤氏の報告「ポスト「虚構の時代」の保守化?」は、日本への誇りを問う質問に否定的に回答するようなナショナリズムを90年代以降の特徴とし、その解明を試みる。多くの事例と補助線を引いたのち、大澤氏は「多文化主義」が「アイロニカルな没入」(信じていないと思いながら実際は信じている)に転回する機制を軸に、多文化主義が生む「普遍性の不可能」を公然と普遍性を拒否するナショナリズムが埋め、PC的左派と偽悪的保守派の主張が補完しあう論理を抽出する。
この3報告に対し、塩原氏は、「保守化」の前提条件として社会各層の「個人化」をめぐる感情を指摘し、それをどう国家・メディアが動員するか、人々が保守にどう没入するかという位相を確認したうえで、なぜ標的が「体制」でなく「左翼」に向けられるかを問う。高原氏は、現在はこれまでローカルな文脈(たとえば「保革図式」)に規定されてきた対立の構図がグローバルな構図に再編成される過渡期であって、ローカルな文脈から解放されて現代の「現代性」をとらえ、戦線を設定する必要があるのではないかと指摘する。
こうした報告者・討論者からの重大な問題提起を展開するには、討論の時間が限られていたといわざるをえない。ただ、そこでなされた、「思想的な分岐点が見えなくなっている」、「もう一度普遍性を復活させないといけない」といった率直な発言からも、この部会が扱った課題の難しさと、従来の枠組みを組み直す可能性を強く感じたことを付記したい。スリリングな3時間を共有することができたことを、報告者と討論者に心より感謝する。