第39回大会「自由報告部会」報告要旨・報告概要
第1部会
報告要旨
言語モデルの権力論に向けて
――英語圏における権力モデルの転換から――
熊ケ谷 寿春 (東京大学)
ホッブズからアメリカの政治学まで、一貫して用いられてきた権力概念の定義は、権力者の行為によって、被権力者の行為の変更をもたらすというタイプのものだった。ここでは、権力は機械論的因果性と個人主義によって了解されているが、これは日常知的な権力現象の理解にも共通するものである。しかし、今日、こうした権力の定義が捉えることのできない、否、逆に覆い隠してしまうような問題群が噴出してきた。すなわち、文化諸領域を貫通するヘゲモニーの問題、文化的再生産の問題、フェミニズムの問題、労働過程における新たな主体化の問題等々である。こうした問いに共通するのは、新たな(新たに発見されつつある)支配の形式が、次の性質をもったものであるという点である。(1) 「権力者」が不明確である、ないしは、不明確にする戦略がある、(2) 被支配者の積極的同調が獲得されるメカニズムが存在する、したがって、ソフトな戦略を中核とする、(3) 支配の原理が言語と密接な関係をもっている、(4) 支配のメカニズムが文化諸領域に深く根差している、等々。
こうした問題設定に応え得る権力モデルを構想するために、まず、機械論的因果性に立脚した権力理論を批判し、次に言語モデルの権力論を提示する。その際、依拠するのは、S・ルークス、A・ギデンズ、S・クレッグの議論である。これら三者は、主体と構造の規定-被規定の関係性、権力行使という行為がルールを前提し結果するという過程を理論化した。権力行使と発話行為の親近性から、言語モデルの権力論の方向性が示される。さらに、時間の許す限りで、具体的事例として、フェミニストの言説分析、地域権力構造論の新たな展開、組織論へのモデルの適用等を紹介したい。そこでは、言語を媒介とする権力行使と、発話と権力行使・被行使の親近性の二点が理論的課題となる。
社会学の盲点としてのことばの政治性と近代化
――ことばの政治社会学小史――
ましこ ひでのり (東京大学)
「<観念>よりも常識的な<知識>こそが知識社会学にとっての中心的な焦点にならなければならない」(バーガー&ルックマン)とゆー指摘、「言語科学の主要な業績」が「社会的機能・社会変動・・・お理解するうえで価値がある」(ラボフ)との指摘からすれば、ことばが、知識社会学の「中心的な焦点」にすえられ、「言語科学の主要な業績」に、もっとめがむけられるべきだろー。欧米の社会学者わ、ことばが<人類学的普遍性にぞくし「社会機能・社会変動」とゆー社会学的対象でわない>とみなすたちばおのりこえ、多文化社会における文化衝突にとりくむために、社会学者とか言語学者とゆーわくにわおさまりきらないよーな「学際」的領域おつくりあげている。
しかし、日本においてわ、30年代にすでに田辺寿利がフランス言語社会学にめおとめながら、かえりみられず、戦後おむかえた。そして、米国にさきんじた、50年代はじめからの国立国語研究所の実態調査、また同研究所お中心とした、言語学者と社会学者の共同研究や、九学会連合などのうごきも、「学際」的みのりとしてわ、社会調査の技法が言語学のフィールド・ワークお、ゆたかにしたことおのぞけば、ひとにぎりの社会学者えの影響にとどまった。そして「日本で社会言語学といえば」 「言語学の傍流の一隅を占めるにすぎず、学会も専門雑誌もないのが現状」であり、言語社会学も「一般的ななじみはもっと薄く、社会言語学の一部という見方も完全に消えたわけではない」(原聖)といった「驚くべき停滞」(鈴木勁介)お、しめしてきた。
本報告わ、なぜ(1)「ことばの政治性と近代化」(ましこ)が知識社会学の「焦点」のひとつにさえならなかったか、(2)言語学プロパー(とりわけ社会言語学)の「主要な業績」がみすごされてきたかおとう、「社会学の社会学」おめざす。【表音主義かなづかい】
J.-P.サルトルにおける集団的アイデンティティの形成について
長谷川 曽乃江 (中央大学)
周知の通り、サルトルの存在論哲学の基盤にはフッサールの現象学がある。だがサルトルがフッサールを援用したのは「志向性」概念までであり、他者の問題に関してはいかなる共同主観性、間主観性といったものも認めない厳格な立場をとった。すなわち、人間の他者関係は超越的な立場からでなく、個別の意識のうちにのみとらえられるのである。そこで、2つの問題が生じる。一つは、他者との関係における自己(外部の自己)が自己自身によってとらえられた自己(内部の自己)と決して重なり合わないということ。《alienation》と呼ばれるこのズレは、人間が社会生活を営む以上必然的に生じる矛盾であり、言語、諸制度、価値体系といった種々の社会関係には必ず含まれるとともに、なんらかの社会的抑圧をも生み出すものである。もう一つは、共同主観性を放棄した以上、どのような手続きによって諸個人間の共同的な意識が形成されるか?ということ。
サルトルが見いだした、《alienation》を調整するための新たな人間間の絆帯とはなにか、また、どのような手続きによってこれを共同的意識のうえにすえたのか。サルトル初期存在論哲学から後期の社会理論にいたるサルトル思想の全体像をたどることによって、これらの問題を考察してみたい。
都道府県間通信交流状況のネットワーク分析
安田 雪 (国際基督教大学)
本論では、ネットワーク分析(Network Analysis)の手法を用いて、現在の日本の地域間の情報通信交流状況の実態を記述・分析した。NTTの平成元年度「47都道府県別通信量」のデータをもとに、47都道府県間の通信量を47×47行列に変換すると、行列内の変数Zijが県iから県jへの通信量の大きさを示す地域間通信交流状況のネットワークを作成することができる。この行列の形で抽出した都道府県間の通信交流ネットワークから、直接結合(cohesion)・中心性(centrality)・構造同値(structural equivalence)・密度(density)・交流の有効性(contact efficiency)というネットワーク指標(network parameters)を用いて各都道府県の通信交流特性を分析すると、東京を頂点とする通信交流量の多大な地域格差の存在、及び都市間の地理的距離と通信交流距離の低相関という実態が判明する。
報告概要
古城 利明 (中央大学)
本部会では政治にかかわるそれぞれ独立の四つの報告がなされた。
第一報告、熊ヶ谷寿春(東京大学)「言語モデルの権力論:権力の現代的作用様式の探求のために」では、権力を諸人格間の因果作用として理解する個人主義的権力論が批判され、脱人称化した支配原理をもつ近代社会では、ラングとパロールの関係をモデルとする権力論が構想されなければならない、との主張がなされた。これに対して、平和時と変革期は異なり、後者の場合再び人格的なものがあらわれるのではないか、との疑問が出された。
第二報告、ましこひでのり(東京大学)「社会学の盲点としてのことばの政治性と近代化―ことばの政治社会学小史」では、日本ではことばの政治社会学が根付いていないこと、そうした関心はむしろ言語学者たちによって押し進められてきたこと、この「盲点」を克服するために社会言語学に学ぶべきこと、が論ぜられた。この報告については、表題にある「政治性」および「近代化」の意味をめぐって質疑が行われた。
第三報告、長谷川曽乃江(中央大学)「サルトルにおける集団的アイデンティティの形成―共同主観性放棄にともなう集団的アイデンティティの形成と存在論的諸問題―」では、共同主観性を放棄したサルトルにおいては集団的アイデンティティの形成にアリエナシオン(他有化)は避けられず、この克服には存在の対自化である自由の相互承認が必要であり、その絶えざる状況開示の論理のなかにポスト構造主義局面と実存の接点をみいだそう、というものであり、この最後の点のもつ意味について質疑がなされた。
第四報告、安田雪(国際基督教大学)「都道府県間通信交流状況のネットワーク分析」では、住人間の電話受発信データを用いた分析の結果、都道府県間に中心、準周辺、周辺の構造がみられること、各都道府県のネットワーク特性と地域活性度の間に相関関係があること、などの諸点が示された。この報告に対しては、住人間だけでなく事業者を入れたらどうなるか、先の相関関係は因果関係といえるか、などの質問がなされた。
以上、一見バラバラの報告にみえるが、あえていえば差異、格差が共通の関心であったように思う。ただし、部会参加者が少なく質疑も発展しなかったので、これはあくまで司会者の印象にとどまる。
第2部会
報告要旨
主観なき主体の回復
――ブルデューの主・客観折衷主義批判――
鎌田 勇
ブルデューは「実践(pratique, Praxis)」を理論化することで客観主義の枠内に主体の契機を回復しようとする。本報告は、ブルデューの意図と基本的理論の枠組みを検討すると共に、そこに於ける問題の所在を明らかにする事を目的とする。
ブルデューによるならば、主観と客観は循環関係にある。客観主義者は対象認識に働く彼ら自身の主観性を無視している。この循環性をつなぐもの、それがPraxisの理論だというのである。ブルデューはPraxisを生み出す、構造化されたそして構造化する構造としての、「ハビトゥス(habitus)」を措定する。ハビトゥスは歴史・文化のmatrixが主体の身体へと内在化された、認知的・動機づけの構造である。この個人の内にあって個人を越えるハビトゥスにより構造が再生産されるという。
ブルデューのPraxis理論は、しかし、一方で、主観と呼ばれている主体の内的過程と客観的構造の二極在立を定式化しつつ、他方、主観、すなわち意志決定・判断といったものを、内在化された客観構造であるハビトゥスの産物とする事で客観化しているのである。つまり、主観とは客観的構造の副産物でしかないという従来の客観主義の枠組みに留まっている。ハビトゥスの概念は、客観的過程に主体を取り込もうとしhumanismを標傍した客観主義者が、客観的構造を主体に内化する媒介として措定した「性格」を言い替えたものである。ブルデューの「主体」は基本的に「過去の人間」でしかなく、更にまた、主体と客観の二元論の維持の表明である。行為あるいは理解を過去、現在、未来の時熟する場として捉える現象学そして解釈学を越えるものではない。
音の社会学の射程と地平-
山岸 美穂 (慶應義塾大学)
人間にとって音とはいったい何なのだろう。生活のなかで、音はどのような意味をもっているのだろうか。
私たちが生きている世界はさまざまな音で満ちている。聞こえる音、聞こえない音、過去の音、未来の音%%%、さまざまな音が私たちの世界を包み込んでいる。人間はただ音を耳にするだけではなく、さまざまな音をつくりだしてきた。音のない生活など、考えることができない、といえるだろう。
さて、私たちは日々、それらの音に何を感じながら生きているのだろうか。生きているなかで、それらの音とどのようなメッセージを交わしているのだろう。
私は、「音」に焦点を当てることにより、人間が生きている姿をできるだけ深くみていきたい、と考えている。人々の音体験をクローズアップさせることにより、時代の諸層、社会の諸層を描いていこう、というのが私の考えている社会学なのである。
・・・・・
日常生活論としての「音の社会学」、私は自らの社会学をこう名づけたい。音および音風景に焦点を当てながら、人々がいかに生きてきたのか、生きているのか、ということを考えていきたいと思うのである。
本報告においては、この「音の社会学」の射程と地平を明らかにしたい。なぜ「音の社会学」なのか、音楽社会学と音の社会学とはいかなる関係にあるのか、先行業績にはいかなるものがあるのか%%%、 こうしたことをのべながら、<音楽>も<騒音>も含み込んだ音の世界の多様な広がりと深みを社会学の対象とすることの意味を語りたいと思う。
具体的な事例を多く用いながら報告を進めたい。特に報告の後半においては、音の視点から私たちが生きているこの時代の様相にアプローチしたいと思う。
M.ウェーバーと現象学
――ウェーバーの理解社会学とシュッツ=パーソンズ往復書簡との関係を考慮にいれて――
宇都宮 京子 (お茶の水女子大学)
従来、ウェーバーの理解社会学は、様々な他の思想家達との関係で扱われてきた。しかし、ウェーバーと現象学との関係は扱われたとしても消極的にであるか、あるいは、むしろ、パーソンズのようにはっきりとその結びつきを否定した学者もいた。シュッツは、ウェーバーの理解社会学を後期の現象学に結び付けて説明したが、ウェーバー自身が直接現象学的な見地をとっていたとはみなしていなかった。そして、シュッツとパーソンズ間で交わされた往復書簡は、この二人の思想家がともにウェーバーの社会学との深い結びつきを自認していたにもかかわらず、その論旨がほとんどかみ合わず不毛の結果に終わったことは周知のことである。私はその理論の行き違いの原因の一つに、この両者がウェーバーと現象学との関係を考慮に入れていなかったことがあげられるのではないかと考えている。今報告ではそのことを根拠を挙げつつ明らかにしたいと思っている。そしてその際同時に、ウェーバー社会学の方法論における「客観的可能性の範疇」の占める位置の重要さと、この概念がなぜ現象学と関係があるのかも明確にするつもりである。
身体と共同体
江川 茂 (茨城県立コロニーあすなろ)
エーテルは、唯の透明でなく層が内在化している。心的現象のエーテル(透明体)は層化している。 層は、構造化、機能化され何らかの力によって動いている。エーテルの表象も深層も層化の一基準である。エーテルは感覚や知識を吸収して成立している。心的現象としてのエーテルは、互いに引き合ったり衝突している。村瀬学氏の包み込むという説に似ている。共同体のなかでエーテルは、引き合ったり、衝突したり渦巻いたりしている。
仮象論とは、他者が自己化する。自己のエーテルの層化の中に他者のエーテルが層化されるのではなかろうか。エーテルが層化するのは、自己と他者の衝突したエーテルのエネルギーが自己が他者に入り込むのである。エーテルの中心に行く程心的現象は重力が大きくなり他者のエーテルが入りにくくなる。人の精神は空気のようなものである。エーテルという空気に始まってエーテルという空気で終わる。人が死ぬというのは、このエーテルの重力が崩壊するのである。エーテル同志が衝突すると人々の心的現象は奇妙な形に変化する。エーテルの中には電波を発するものがある。それは呪術師や祈祷師のようにエーテルが読めるのである。死んだ人のエーテルも読めるのはこのことではなかろうか。
共同体の存立構造とは、心的現象かつエーテルの蓄積なのである。身体と共同体は、あくまでも私の仮説です。心的現象が奇妙な形に変化すると登校拒否や出社拒否や障害が起こると思われる。
報告概要
西原 和久 (群馬大学)
この部会は、おもに社会学の理論を中心にして以下の報告と質疑応答がなされた(以下の記述は当日の報告順)。
報告では山岸美穂氏(慶應義塾大学)が、「音の社会学の射程と地平」という論題で、様々な先行業績への言及と多様な事例を示しながら、「音楽社会学から音の社会学へ」の構想を展開した。日常生活論として「できごととしての<音楽>を捉える<音の社会学>へ」という報告者の視点は、比較文化論や現代社会論としてのみならず、文化それ自体や共同性をめぐる論点としてもたいへん興味深く、活発な質疑応答もなされた。
第二報告では宇都宮京子氏(お茶の水女子大学)が、「M.ウェーバーと現象学」という論題で、主観的見地をめぐるシュッツ/パーソンズ論争を踏まえたうえで、おもに「ロッシャーとクニ-ス」や「理解社会学の若干の範疇」におけるウェーバーと初期フッサール現象学との関係が論じられた。ウェーバーの客観的意味、客観的可能性の範疇などの概念が初期現象学の影響を受けているという報告者の○密な議論は、返す刀で主観的見地をめぐるウェーバー、シュッツ、パーソンズの間に差異をも整序することになり、これまたたいへん興味深く思われた。
第三報告では鎌田勇氏が、「主観なき主体の回復―ブルデューの主・客観折衷主義批判」という論題で、ハビタス概念を中心に、ブルデュー実践理論の問題点を、おもにメルロ=ポンティ、サルトル、ガダマーといった現象学・解釈学の立場から批判的に考察した。批判のおもな論点は、ブルデューの「主観」概念が客観主義の枠組みに留まっているという点と、主・客の形而上学的二元論への批判を彼が欠いているという点に向けられた。刺激に富んだ報告者の議論に必ずしも活発な質疑応答がなされなかったのは残念であったが、その論争的な仕掛と報告内容には大いに関心を惹かれた。
全体としてどの報告も充実した内容であり、今後の研究の展開が大いに期待されるものであった。
[なお、報告予定の江川茂氏(茨城県立コロニーあすなろ)は都合で欠席され、事前に送付されたレジュメ「身体と共同体」のコピーが会場で配布されたことを記しておく。]
第3部会
報告要旨
日本語学校へ通う就学生の生活
若林 チヒロ (東京大学)
1980年代に入って、アジア系を中心とする外国人の来日は増加し、学生や単純労働者など様々な外国人が日本に生活するようになった。特に1983年、21世紀までに留学生をフランスや西ドイツ並に増加させるという「留学生10万人構想」を政府が発表したのを受けて、留学生が大学へ進学する前に日本語を勉強する場などとして日本語学校が多く設立され、日本語学校へ通う就学生は急増する。しかし、観光ビザなどで入国し、専ら就労する不法滞在の外国人労働者が増加するにつれて、就学生は留学生予備軍ではなく、学生を隠れ蓑にした偽装就労者であると言われるようになった。
そこで今回、このような通説が妥当であるのかという疑問から始まって、日本で勉強する外国人学生の生活実態を知るために調査を行った。日本における外国人学生についての調査は既にいくつか行われているが、彼らの就労、住居、就学、健康、就職などの各面を断片的にとらえたものであったので、それら側面を総括して生活構造を明らかにすることに努めた。また一時、就学生の大部分は中国出身者であったため、就学生全体のイメージや調査結果が中国出身者に偏っていた面があったが、近年では韓国やマレーシアなどからの学生も増加傾向にあることを考慮し、今回は国籍別の違いにも特に注目し結果分析を行った。
ボーダーレス時代における移民労働者
――第三世界側における主体的要因に着目して――
成家 克徳 (東京大学)
本報告では、第三世界において移民あるいは移民労働者が生まれる要因について予備的な考察を試みる。とりわけ第三世界側の国家・社会がはたす役割に議論を絞りたい。 第二次大戦後、アジア・アフリカ等で植民地が次々と独立を獲得し、国民国家として政治的・社会文化的にも経済的にも発展向上していくことが期待された。国家建設(state-making)・国民形成(nation-building)および国民経済の樹立は、新興独立国にとって最大の課題であるといってよい。ところが、これらの国々から、多数のヒトが欧米先進国や石油産出国へと流出しているのである。このことをどう理解すべきなのか。国民国家・国民経済の破綻を意味するのだろうか。
さてヒトの国際移動を説明する最も代表的な見解は、プッシュ・プル理論である。この理論では、国際移民を国民経済間の水準の差異の結果として理解する。他方では、世界システム論を取り入れた見解も有力である。移民を国民経済間の差異の現象と認識するのではなく、資本主義的世界経済という単一のシステム内部のものとみなす。しかしながら、いずれの見解も移民を「労働力」の側面に限定しており、経済偏重をまぬがれなかった。またどちらの議論も第三世界側の自律性・主体性をあまりにも簡単に無視することになった。
以上のような問題点を前提に、第三世界の主体的適応という観点から移民現象を吟味したい。まず、 「国家」発展の戦略として労働力輸出がなされているのだという見解を考察する。この見解は韓国のような「強い国家」をのぞけば、必ずしも支持されないが、ボーダーレス・エコノミーといわれる現代世界における「国家」および「民族」(ethnicity)の役割の考察に導かれる。
福祉国家と市民権
――福祉国家の政治社会学序説――
伊藤 周平 (東京大学)
1970年代以降の経済成長の停滞と財政危機という状況のもとで、多くの批判にさらされ続けてきた欧米や日本の福祉国家は、1990年代に入っても、その信頼性を回復しているとはいいがたい。福祉国家の抱える問題の中には、財政危機といった経済的問題のほかに、福祉国家の政治的コンセンサスともいうべき権利としての福祉が、その正統性と統合機能を喪失しているという政治的法的問題もある。こうした状況は、権利としての福祉のみならず、市民的諸権利も本質的なところで未定着な日本において特に顕著である。
ところで、マクロな福祉国家の社会学的研究において、戦後、主流をなしてきたのが、近代化、産業化の概念を用いて、福祉国家の発展を説明する機能主義理論であった。しかし、この種の理論では、現代の福祉国家の政治的法的問題状況を充分に解明しきれないと思われる。その一方で、福祉国家の発展を、民主化、もしくは市民権の拡大と法的制度化という観点から解明しようとする研究潮流も存在する。思想的にはA.トクヴィルにまで遡り、T.H.マーシャルの市民権理論に代表される政治社会学的なアプローチである。 本報告では、マーシャルの市民権理論を再検討することを通じて、現代の福祉国家の抱える問題状況を、市民権としての福祉という観点から明らかにする。と同時に、こうした問題状況が、市民権の多元化と自己解体、すなわち、個々人を市民権を有する国民として包摂してきた近代国民国家そのものの相対化をも意味していることを指摘する。
「脱物質的」価値に関する批判的一考察
――新しい社会運動との関連で――
渡辺 伸一 (東京都立大学)
「脱物質的」価値という概念は、エコロジー運動を初めとするいわゆる「新しい社会運動」を研究している論者が積極的にであれ消極的にであれ、用いる概念となっている。いうまでもなくこのことは、新しい社会運動を分析、理解しようとするために「脱物質的」価値という概念が不可欠であるということを示している。
ところで、そうはいってもこの概念を、イングルハートが定義したそのままの内容で新しい社会運動分析に用いることには問題がある。というのも彼が提起した「脱物質的」価値という概念はきわめて一般的な意味で提出されたものであって、それをそのまま借用して、新しい社会運動を導く固有の価値観だとするのは、あまりにも粗雑な手続きというほかなく、無視できない問題点を内包してしまうからである。にもかかわらず、多くの論者にはそのことが必ずしも自覚されているとはいいがたい。 したがって、こうした手続きのどこに問題点があるかを明らかにし、イングルハートのいう「脱物質的」価値と新しい社会運動を導く価値としてのそれ(=<脱物質的>価値)との違いを明確にさせることが必要である。
本報告はあくまでこうした限定された観点から「脱物質的」価値と新しい社会運動との関連を論じようとするものである。
報告概要
小倉 充夫 (上智大学)
予定の四報告のうち三報告が行なわれた。「日本語学校における就学生の生活」(若林チヒロ)、「ボーダーレス時代における移民労働者―第三世界における主体的要因に着目して」(成家克徳)、「福祉国家と市民権―福祉国家の政治社会学序説―」(伊藤周平)である。
第一報告者は日本語学校の就学生501名の調査に基づいて、就学生は「出稼ぎ目的の偽装学生」ではなく「留学念予備軍」であると論じ、就学生についての一面を知る手がかりとなる資料を提供した。しかし留置きという調査法と関連して、回答の信頼性と報告の結論について疑問が投げかけられた。また、政策や制度的側面との関連付けが不十分なため、調査結果の解釈や結論に説得力が欠けるところがあったように思われた。
第二報告者は国際労働力移動を受け入れ国の経済的側面からだけでなく、送り出し国の側から論じ、国家による発展の戦略として労働力輸出がなされているということに着目した。重要な視点であるが、もう少し具体的事例に即して論じられたならば議論も活発になったであろうと残念な気がした。
第三報告は福祉国家の生成と発展を政治社会学的に検討したものである。市民権理論と機能主義理論を取り上げ、主に前者の立場に立って、福祉国家化が社会権の抱摂による市民権の拡大として論じられた。整理された明確な説明がなされ、福祉国家化の比較政治社会学的研究の可能性を示す興味深いものであった。
三つの報告相互のつながりをあえて見い出そうとするならば、移民労働者など外国人居住者への福祉拡大の問題、さらに南北問題の枠組でみれば、国民国家の成員に限られた福祉の限定化の克服の問題(「福祉国際社会」の形成)などを考える上での基盤を提供してくれたように思われる。