第38回大会「自由報告部会」報告要旨・報告概要

第38回大会「自由報告部会」報告要旨・報告概要

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第1部会
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第1部会

報告要旨

M・ウエーバーにおける「理解的解明」をめぐって
-4つの行為類型と『経済と社会』の二部構成について-

宇都宮 京子 (お茶の水女子大学)

 『経済と社会』二部構成についての批判はF・H・テンブルックや折原浩氏によって行われているが、1920年にウエーバー自身によって発刊された第一部のあとに、彼の死後、マリアンネ・ウェーバーらが何の説明もなく1913年頃の草稿を第二部としてつけ加えたことの罪は大きいと思われる。この2つの時期の彼の著作の内容には、後者が「整合型」及び「客観的可能性の範疇」を考慮した形で論述を進めているのに対し、前者はそれらを意図的に無視して書き直しているという決定的な差が存在している。しかし、ウエーバーにとって不幸なことに、上述の両概念の意味と役割とは、彼が本来意味したようには理解されておらず、それによって上記の変更の意味も原理も理解されてはいない。それ故、この二部構成は読者に大きな混乱をもたらしている。また、その第一部の冒頭の概念規定のところは、もっともよく引用され、また批判の対象にもなっているのだが、ウエーバー自身がその序文のところで、<1913年の論文と比較してわかりやすくしたが、それは多少の通俗化を伴っている>と述べているのに、その<通俗化>という言葉の真の意味は理解されてはいない。そして、その無理解に基づいて諸批判が展開されているのである。今回はA・シュッツやT・パーソンズの批判を検討しつつ、以上のような点を明らかにし、ウエーバーの「理解的解明」の意味を吟味したいと思っている。

社会学における意味の意味

石井 和平 (日本大学)

 社会学において「意味」の問題が強調されるようになってきた。それは、一方で、主体を語るうえで意味という視点が極めて重視されるからであり、他方、システムに対峙して存在する基底的な場としての生活世界という概念が定着し、そこでのコミュニケーションの重要性が指摘されるようになってきたからでもある。
 前回の研究例会に引き続き、生活世界における仮構の導出という論点から、社会学上の批判理論を展開するうえでの戦略として認知されてきた生活世界の概念について指摘し、生活世界自体を理念化された仮構として考えてみたい。
 また本報告では、この論理の線上で、意味の問題に焦点をあて社会学における意味という概念を再考することを意図している。そして意味の問題を考えるために言語学的視角を取り入れてみることも企図している。
 勿論、過去にも言語学志向の社会学理論の展開が存在していたわけではあるが、社会学においてシステム対生活世界という新たな二項対立が定式化し、意味の問題を生活世界の問題にリンクさせる今日において、この視点から論理を展開することに意義を見いだしたい。

ジャンセニスムとプロテスタンティスム
-その共通性と相違-

浅井 美智子 (お茶の水女子大学)

 中世末期から近世初頭にかけてのヨーロッパ社会は、スコラ自然学に対する近代科学、神の絶対性に対する人間の自律性と自由を謳うユマニスムが台頭しつつあった。そのようななかで、キリスト教界は伝統的な神学教理に対する見直しを迫られ、展開されたのが宗教運動である。それは、ルター、カルヴァンのローマ・カトリック教会に対するプロテスト運動とイエズス会を中心とするキリスト教の刷新を図る伝統的カトリシスムの対立として表面化している。しかしながら、17世紀中葉、オランダのジャンセニウスに由来する、通称(蔑称であるが)ジャンセニスムの思想運動は、プロテスタントのみならずカトリックとの対立のなかで展開されたものである。
 本報告の目的は、この宗教運動のなかでカルヴァニスムにもっとも近いと言われながら、あくまでカトリシスムの枠内で思想・宗教運動を展開したジャンセニスムをその比較において検討することである。

ことばの政治社会学
-「単一民族」幻想批判のために-

ましこ ひでのり (東京大学)

 外国語をまなぶときには、ある地域において○○語という均質的な「ことば共同体(speech community)」がある、という虚構を学習上の方便としてもちいる。しかし、それが、現地の言語生活を極度に抽象化したものであることはいうまでもない。しかしその一方で、「ことば共同体」は地縁的(共時的)、伝承的(通時的)な一体感(帰属感)をともなう、共同主観の産物、いわば「想像の共同体」でありその自我包絡的構造は、「より」異質的な集団との対抗上組織化され、「地域」主義⇔「民族」意識(主義)⇔「国民」意識の各レベルで「統合」しうる「実体」でもあるため、汎○○主義への方向にも、分離独立運動の方向へもかたむきうるのだ。こうした「ことばの政治性」については、エスニシティという観点から欧米の移民問題などに興味があつまっているが、あしもとの「日本」については、「欧米のような」問題はないとの、ひとことでかたづけられてきたきらいが否定できない。しかし、(前)近代のアイヌに対する幕藩-維新体制および近現代の朝鮮統治-強制連行-帰化・同化体制は、あきらかに異民族問題であるし、琉球文化圏での中国とのヘゲモニーあらそいと、それにつづく「風俗改良運動」は、近代「日本」という体制にとって、「民族」とか「国民」とはなにかという問題をつきつけてくる。
 本報告では、「(ほぼ)単一民族の日本」というイデオロギーの形成過程と再生産構造をときあかすために、琉球文化圏の近代史を言語社会学的に再解釈することで地域の「近代化」の基本的問題点を指摘するとともに、戦前の「皇民化」教育の基本姿勢である「同化」指向が、「基本的」には、かわなくつづいており、それが天皇制→「象徴」天皇制という連続性のかぎなのではないかを、とうてみたい。

報告概要

山本 鎮雄 (日本女子大学)

 この部会は社会学の理論を中心として、四人の若手研究者が報告をおこない、それをめぐって質疑応答がおこなわれた。テーマおよび報告者は以下のとおりである。
 (1)M.ウェーバーにおける「理論的解明」をめぐって――4つの行動類型と『経済と社会』の二部構成について――、宇都宮京子(お茶の水女子大学)。(2)社会学における意味の意味――意味の場としての生活世界の視点から――、石井和平(日本大学)。(3)ジャンセニスムとプロテスタンティスム――その共通性と相違――、浅井美智子(お茶の水女子大学)。(4)言葉の政治社会学――「単一民族」幻想批判のために――、ましこひでのり(東京大学)。
 第1報告(宇都宮)は、M.ウェーバーの「理解社会学の若干の範疇」と「社会学の基礎概念」の両論文の「変更」の意味と方法をテーマとして、とくに行為の四類型の概念上の相違を丹念に指摘した。さらにマリアンネ・ウェーバーによって付け加えられた『経済と社会』の二部構成の問題点に言及し、ウェーバーの「整合型」の概念を中心に「理解的解明」の意味を吟味した。
 第2報告(石井)は、今日の社会学の二項対立的状況は、目的合理性にもとづく「システム」の導入と、人間中心主義として理念化された「生活世界」にあるが、後者の視点から「意味」の問題を中心に取り上げた。神話やシンボルは生活世界における「意味」の生成であり、人間が本来的にもつ基底的な意識を利用することで、権力の神話化、価値観の生成という共犯関係が形成されることに言及した。
 第3報告(浅井)は、17世紀中頃、オランダのジャンセニウスに由来するジャンセニスム(ヤンセン主義)の宗教運動を、それと対立したローマ・カトリックとプロテスタンティスム(特にカルヴァニスム)と比較し、その教理上の特徴と相違点を指摘した。とくにカルヴァニスムの世俗内的禁欲にたいして、隠棲というジャンセニスムの世俗外的禁欲の特徴を明らかにした。
 第4報告(ましこ)は、言葉が集団のウチ‐ソトを差別化する道具であるという「言葉の政治性」に注目し、言葉を政治社会学的に考察した。特に「単一国家の日本」というイデオロギーの形成過程を解明するため、琉球文化圏の「同化」過程を言語社会学的に解釈し、「風俗改良運動」と標準語化政策における「近代化」過程の問題点、文化放棄、民族消滅の過程を指摘した。
 いずれもユニークで、今後の研究の展開に大いに期待される報告であった。

 

第2部会

報告要旨

家族員として意識する範囲
-居住形態との関係から-

長山 晃子

 かつて住居の共同は家族としての要件と考えられてきたが、社会移動の激化や家規範意識の希薄化とともに今日では、同居は必ずしも家族としての要件と言えなくなってきている。
 本考察では同居・別居という居住形態の違いを用いて、親族の中の親、既婚の子供、きょうだいという続柄について家族員と考えるかどうかを問うた調査データをもとに、家族員としての意識と居住形態との関係について検討し、一般の人々が持つ家族概念の変化の方向を探ろうと試みる。
 結論のみを要約すれば、概して同居という居住形態が家族員の条件として強く働く続柄は親である。これに対して子は居住形態に関係なく続柄そのものが家族員として意識されやすいと言える。また、きょうだいは同居していても家族員としての意識の外側に置かれる傾向が強い。このような傾向を踏まえたうえで、本報告では、長男と娘、夫方親と妻方親、きょうだいと配偶者のきょうだいという続柄の対比をもちいて、年令・家族周期段階・居住地域等の違いにより家族員として意識する範囲にどのような差がみられるかを検討する。

アナール学派の家族史研究
-J.-L.フランドランとM.セガレーヌの業績を中心として-

岡田 あおい (慶應義塾大学)

 本報告は、家族社会学が自明としてきた近代以前の家族を研究対象とし、家族社会学にいくつかの問題提起をしている、フランス歴史学の一研究グループ、アナール学派の家族史研究の視点並びに方法の展開を明らかにすることを目的とする。
 まず第一に、アナール学派を家族史研究に導き、肯定的にせよ、否定的にせよ現在に至るまで継承されている先駆者Ph.アリエスの家族論について論じ、次に、彼の家族論を継承しながら、新しい視点を家族史研究に導入したアナール学派のJ.-L.フランドランとM.セガレーヌの研究について論じたい。アナール学派にはA.ビュルギエール、G.デュビー、A.コロン、E.ショーター、E.バタンテールをはじめ数えきれないほどの家族史研究者がいる。その中から2人を取り上げることにしたのは、彼らの研究が、アリエスの方法を発展させ、そこに独自性を展開したこと、かつ、ア  ナール学派の家族史研究の特徴を顕著にあらわしていること、さらに現在、家族社会学に大きな影響を及ぼし、家族史研究を不動のものにしたことによる。
 なお、アナール学派の家族史研究は、日本では女性史研究との関連で紹介されることが多いが、本報告では、過去において女性がどのように扱われていたか、いかなる地位を占めていたかを論じることを目的とするものではない。本報告の目的は、あくまでもアナール学派の家族史研究の視点並びに方法の展開を明らかにすることである。

社会理論としてのクリステヴァ理論の可能性
-日本におけるその適用について-

鈴木 由美 (お茶の水女子大学)

 J.クリステヴァの理論を社会理論として適用することの意義は、社会構造に規定されると同時にその変動の契機ともなりうる主体としての彼女の「過程にある主体」(sujet en procès)の概念を理論化することにある。そこにおいて鍵となるのは、言語を媒介として社会によって産み出された「主体」が、自らを胚胎した社会の経済的、政治的、制度的な諸矛盾を、象徴体系にとっての「異質性」として引き受けるという考え方であると思われる。この彼女の主体理論の重要性を理解したうえで、さらに「主体」の成立の過程で「異質性」として抑圧される性的欲動を推進力として「主体」が社会構造を変動させうること、そしてそれは象徴秩序への揺さ振りとしての言語実践を伴うものであるという彼女の理論の妥当性が問われなければならないだろう。
 本報告では、日本におけるクリステヴァ理論の社会理論としての活用が、しばしばその動的な主体概念に十分顧慮することなくなされてきたために生じた問題点をあきらかにするとともに、彼女の理論に内在する生物学的決定論がはらむ矛盾について触れ、あわせてその限界の乗り越えの可能性を探りたい。

報告概要

江原 由美子 (お茶の水女子大学)

 本部会では、ともに家族・母子・親子等の領域に言及するとはいえ、視角も方法も全く異なる、独立の3つの報告がなされた。
 第一報告では長山晃子氏が、「家族員として意識する範囲」に関して実証的な報告を行った。長山氏によれば、「家族観が多様化」している今日こそ「人に家族という意識を生じさせている要因が何」であるか探ることが可能であり、「人々の家族観を分析すること」が重要になるという。このような観点から、地域別・家族周期別などによる「家族員として意識する範囲」の違いを分析し、「家族観の変化」と「個人のライフ・サイクル」や「社会全体の変化」との関連が論じられた。議論は調査方法・分析方法の是非等の論点に関し活発になされた。
 第二報告では岡田あおい氏(慶應義塾大学)が「アナール学派の家族史研究」に関し、アリエス、J-L.フランドラン、M.セガレーヌの研究の成果と限界を比較する報告を行った。岡田氏によれば、アナール学派にはアリエスから継承した「過去の人々が抱いていた家族観の解明」という共通のパースペクティブがあり、この視角はJ-L.フランドランとM.セガレーヌによって受継がれ、家族史研究を不動のものにしたという。議論は、アナール学派の方法論の是非や資料の問題などに関し活発になされた。
 第三報告は、鈴木由美氏(お茶の水女子大学)が「社会理論としてのクリステヴァ理論の可能性」を探る報告を行った。鈴木氏によればクリステヴァ理論は、その「過程にある主体」概念に注目することにより、「主体」が言語実践を通じて「社会構造を変動」させうる可能性を論じる社会理論として読むことができるという。そしてこのクリステヴァの社会理論としての可能性は、非西欧社会における「主体」に対して適応できるかを問うことにより検討しうるという。発表内容が難解であったせいか議論はやや少なかった。
 全体としてどの発表者も充実した内容であり、しかも午前中の部会にも関わらず多くの方々に御出席いただき議論も活発になされた点、自由報告部会の充実化が感じられた部会であった。

 

第3部会

報告要旨

我が国の西洋医学導入期における準拠国の模索
-歴史・科学社会学的視点に基づいて-

北嶋 守 (駒澤大学)

 我が国の近代化・西洋化の歴史の中で大きな位置を占める幕末から明治初期という時代は、「西洋科学の系統的な導入過程」として観察が可能であり、この問題に関しては、既に、歴史学、特に科学史(History of Science)の分野において多くの研究成果が蓄積されている。
 そこで、我々は、我が国の近代化・西洋化という歴史的転換点に関し、そうした研究成果を踏まえながら、19世紀初頭から中葉にかけての西洋学術導入に注目し、その社会学的分析を試みた。本報告では、特に医学分野における西洋学術導入がどのような過程で進行し、また、最終的には「ドイツ医学制度採用」という一つの結論に達したその意思決定(decision-making)がどのような状況において行われたのか等について、「準拠国(reference nation)」という分析概念を用意し、その準拠国の模索過程について、マクロ分析(準拠国指数の推移)とミクロ分析(ドイツ医学制度採用に関係した成員間の社会的ネットワークの性質)の2つの側面から社会学的考察を行った。
 今回の報告は、まだ、プリ・サーベイの段階ではあるが、上述したように本研究は、歴史的事象及び科学(学術)の制度化(institutionalization)の問題を対象にしていることから、それは、歴史・科学社会学(Historical Sociology/Sociology of Science)的研究と呼ぶことができよう。

若者論の諸相
-その批判的検討-

岩佐 淳一 (中央大学)・新井 克弥 (東洋大学)

 今日、いわゆる「若者論」は記号論、社会心理学、消費社会論、マーケティングなど様々な視角からのアプローチがなされている。社会学においても同様にいくつかのアプローチが行なわれているが、しかし社会学の一領域として十分にその地位を確立しているとは言い難い。その原因としては(1)概念の不明確さ、(2)実証研究の不足、(3)それに伴う理論展開の恣意性、(4)ジャーナリスティックな取り扱われ方等があげられよう。上記のような若者論の多様な展開によって現在若者像は見えにくくなっているとは言えまいか。こうした状況を踏まえ、本報告においては「若者論」の整理を試みる。内容は以下の通りである。(1)「若者論」という領域の明確化、(2)80年代を中心として「若者論」の鳥瞰,(3)その批判的検討。

精神薄弱者の無断外出について

江川 茂 (茨城県立コロニーあすなろ)

 精神薄弱者が幻想によって自己自身が分からなくなるというのはどのようなことであろう。それは施設に入所する前の記憶が施設入所後とその後の変化によって異なった場合に起こるのであろう。
 カントは、一生自分の住んでいた所を離れなかったという。精神薄弱者も同じことが言えるのではなかろうか。施設生活を送るとそこで一生を過ごすわけである。精神薄弱者とて人間であるのでやはりどこかへ行きたいと思う。それが無断外出なのである。無断外出したがるのは、幻想の中で地図があるのだろうか。地図は、自分の住んでいた所の地図なのである。時間、空間の中を無断外出するのである。なぜ、自分でコピーされた地図が基になって、どのような動機で無断外出するのであろう。それは、自分の欲求が満たされない時に起るのである。精神薄弱は、知的幻想でなく感覚的な幻想なのである。
 だから方向はどこへ行くか分からないのである。コピーされている地図と無断外出して歩く地図は異なっているのである。でも何か同じ所がある。そこに向かっていることはたしかである。精神薄弱者も幻想の中に存在しているに違いない。これはあくまでも仮説である。

報告概要

川崎 賢一 (東京学芸大学)

 本部会は、分野別にみて、相互に独立したものが、三つ集まった。
 第一報告は、北嶋守(駒沢大学)氏が、「我が国の西洋医学導入期における準拠国の模索――歴史・科学社会学的視点に基づいて」という、興味深い発表をおこなった。彼は、準拠集団概念に依拠し、〈準拠国〉という概念を提案した。それを用いて、明治初期における、西洋医学の準拠国が決定されていくプロセスを次の指標を用いて明らかにした。分析内容はマクロ・ミクロ分析から構成され、前者の指標は、西洋医学に関する翻訳書数を用い、また、後者の指標は、社会的ネットワークに関するものを用いた。その結論は、マクロには、ドイツ医学が明治期以前から、蘭学書と並んで訳されている事実が明らかにされた。また、以外にも、ネットワーク分析からは、二つの社会的勢力のバランスから、第三国のドイツが選択されたことが明らかにされた。今後の展開が楽しみな研究である。
 第二発表は、岩佐淳一(中央大学)・新井克弥(東洋大学)両氏の「若者論の諸相――その批判的検討」という発表で、内容は、いわゆる〈若者論〉を、ここ20年間にわたって批判的に総括し、今後の研究の方向を提言するものであった。70年代の青年論は、アイデンティティとモラトリアム――E.H.Eriksonの強い影響のもとに――概念を中心に展開し、80年代はそれを引き継ぎつつ、いわゆる、新人類論が登場した。しかし、実際に調査すると、新人類の特質である、自己忠実性・親メディア性・対象化能力・モラトリアム等は、調査結果に出ないというのが発表者の判断である。したがって、90年代の青年論の課題は、地道な実証の積み重ねと概念倒れを避けることだという。この主張は、もっともなものと判断され、今後の彼らの研究成果に期待したい。
 最後の報告は、江川茂(茨城県立コロニーあすなろ)氏のもので、その職業キャリアに基づき、「精神薄弱者の無断外出について」を報告した。その中で、無断外出が、単に逸脱的な行為ではないことを指摘する一方で、無断外出の内容についても次の仮説を述べられた。それは、無断外出者の認知地図は、一見するとアットランダムに見えるが、実は、その人自身の認知地図(例:その人の住んでいた近所・施設までのルート等)が大きく関係していること、である。仮説の妥当性は、司会者の専門ではないので判断できないが、できれば、もう少し整理して報告していただきたかったように思う。

 

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